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結局のところのふわふわ感

庭仕事をはじめる。

先週から、すでに10本以上の木や花を植え替えた。
人の手を入れていくと、木々たちがいきいきとしてくる。
ほったらかし=自然ではなく、少し手入れをしていくと、
植物たちは応えてくれているよう。

日本には四季がある。
そして一年という単位で、季節が一巡する。
木々の手入れにも、旬があって、この時期を逃すと
「また来年!」ということになる訳だ。

時間の経過、時間の感覚が変化してきている。
一年に一回のチャンスで、それを逃すとまた来年な訳だから、
3年とか5年の単位のスパンで、
庭の木々の今後の展開を考えていきながらの作業になる。

来年には、こんな感じになるとして、
あと3年ぐらいでこのあたりまで枝が来るだろう、という感じ。

今までの時間感覚から見たら、大変のんびりとした話だ。

引き続き、ワインの勉強も並行している。
これは毎日とはいかないが、時間を見つけて繰り返し
参考情報を読み込む。

今は、生産者の情報とか、ぶどう畑でどうやって作っているのかの情報が、
詳しく入手できるようになっている。

生産者も、自分がどんなところにこだわり、
気遣い、力をかけて作っているのかを、
きちんと情報として発信するようになってきていて、
それを元にして、
生産者同士が情報交換をして、
さらによりよくするためにはと
意見交換も行われるようになってきているらしい。

土の組成、水はけ、日照時間、風、ケミカルを排除しながら、
さらには月の満ち欠けのタイミングにあわせての作業であったり、
あるいは、一つの試みのために、
畑の中で作り方を変えていきながらの試行錯誤もあったりする。

ぶどうが収穫できて、そこからどうやって実を絞るか、
どうやって熟成させるか、
濾す方法、樽の素材、、、、

手法と組み合わせが無限にある中で、
いかに「商品」としてのワインを出荷させていくことができるかという、
高度な試行錯誤があるから、やはり農産物は
「格闘技」のエネルギーが必要であったりする。

ここでも、時間の感覚は、ほとんど10年単位のスパン。
ワイン育成について言えば、30年、50年という単位が最小単位のような仕事。
自分の人生の時間で結果が全て出る訳でもないというものも出てくる。
2世代にわたる「商品」が出たりする訳だ。

時間の感覚がずいぶんと引き伸ばされて、
人生の時間単位をかけて、何か一つのものに格闘するということが、
とても魅力的なものに感じたりする。

いろいろな人生時間の使い方があるのだけれど、
何か、ひとつ、このための人生でした。というような何か。
そんなものをこの3年、5年で見つけ出せればという気がする。

そんな構えかたであれば、いつまでたっても、
毎年毎年、3年後が並行移動。
「ただいま検討中」という感覚に陥るのかもしれないが。

ふふふ。


そんなふわりとした、こんにゃくのようなふわふわ感といったところ。

ふわふわ感といえば、ところで、最近の東京電力さんは、
本当に困ったものだ。

「お前ら、結局電気がないと困るんじゃろ」

だから、原子力発電も早く動かさないと、
お前ら、困るじゃろ?
電気はわしらが作って、供給してやってる訳だから、
立場をわきまえなされよ。

ムカつくけれど、実は、ごもっとも、その通りの社会の構図。

こどもの頃、母親はよく、こう語っていたものだ。
この発言に、反発し、反逆してきたものだけれど、
最近は、やはりそうなのかもと思ってしまうことがあったりして苦笑い。

曰く、

社会は平等なんかじゃありません。
人間は同じなんかじゃありません。

持つものと、その持つものにいいようにされる側。

だから、勉強するのです。
勉強して、競争して、勝つのです。

アホは、かしこに支配されていくのです。
それは、いい悪いではないのです。
そういう「秩序」があるのです。
それを知ることが大人になるということです。

寄らば大樹の陰、日本はこうして組織されているのです。



ふふふ。

今も納得も立ち位置として賛同もしないけれど、
これはわたしくも年をとりましたな。
構図として、わかるような感じが少しある。


僕自身の意見としては、
電気のある暮らしが、誰かの生命を犠牲に成立するならば、
言い換えると、
便利な暮らしが、誰かの尊厳やプライドを犠牲に成立しているのであれば、
あるいは、
この経済や、豊かさが、個人の自由や個性が発揮できる基盤が、
誰かの生命を犠牲に成立しているのであれば、
それは、やはりその暮らしは長続きしないんだと思う。

そして、危うい「虚構」の上にそびえ立つ「虚像」の豊かさ。

結局、全てが「仮設」の仕事、経済、生活。

ぶっちゃけて言えば、
あーしょうもない。

そして、こうして電気を使って、
パソコン使って、
こんな文字を打ち込んでいる僕。

ふふふ。

そんなことやな。結局。
そんなことのふわふわ感。

# by kouheimikami | 2012-03-28 00:31 | 日記

Fragmentary scenery

それは懐かしい記憶
雨の川崎、まだ「のぞみ」は走っていないころ。

少し長い研修期間。
宿舎の研修所の玄関の前、電話ボックス

彼女が小さな声でささやく。
あなたのことは大好きだけど、、、

泣いている声。

僕は声が出ない。




もう20年以上も前の、彼女の声が
白い廊下に聞こえる。

「あ、そうですか。じゃ月曜日の午後に、、」


あれ?


僕は原因がわからないめまいの検査に来ていた。
ずいぶんと痩せた彼女の姿が受付に見える。

何しているの?


彼女は驚いた様子も見せずに、じっと見つめる。

っていうか、何しにきてるん?

あ、検査やねん。ほんで?

私も検査。

へえー。

秋にがんの手術したんやんか。

そうなんや。どこの?

子宮がんやねん。

術後は?

うーん。

うーんって?

いろいろ転移しててな。だぶんちょっと手遅れ的な(笑)

そうなんや。

それで、もう一度検査をして、身の振り方を考えよ思て。

身の振り方?

徹底抗戦するか、それか手術とかはせんとくか、2択。

で?

うーんと、ホスピスの説明を月曜日に聞くことにしてん。

そうなんや。

ほんで、どうやったん?

ん?僕か?原因不明ってとこやな。

昔、駅で倒れた時みたいやね。


ああ、そんなことあったなあ。そうや、そんな感じでちょっと前に倒れたんやんか

そうなんや(笑)変わってへんなあ。

それから、しばらく、めまいが続いてんねん。

私が呼んだんちゃうかしら(笑)

呼んだ?

そう、ここに。たぶんもう最期やから。

最期?、、、、ああ、最期か。

最期に伝えたいことあってんか。

伝えたいこと?


がんばってや。って。

言われんかってがんばっとるわ。

そうと違ごて。忘れてるやろけど。

はい、しっかり忘れてます。



電話覚えてる?

いつの?

川崎に行ってたときの。最後。

ああ、最後。


私大好きやったけど、ナイフを振り回すようなあなたを
私はあれ以上、どうすることもできなかったから、

私、精一杯生きてやるから、あなたも精一杯生きて、
そして最期のときだけ、また声を聞かせて、って

そう言ってたんや。泣き声と小さい声やったから、よくわからんかった。

ええよ。今こうして実現してるんやから。


えーと、またお茶でもする?

やめとく。

もう実現してるし、私時間ないから
家族や子供や、だんなや、両親や、いろいろやりたいことあるから。

そうか。

そう、また次の人生で会いましょう、やな(笑)

そういうことになるな、っていうか、すごいな。

すごない。誰かて同じやと思うわ。死んでから後は私はいない。
生きてる時しか意識はない。ということやから、結局。

なるほど。

でも、思いは残るんやと思ってる。
カラダと意識は消えるけれど、思いは残る。


残りますか。

残ります(笑)


そうですか。

そうですねん。


ありがとうな、呼んでくれて。

こちらこそありがとう、来てくれて。
あ、タバコまだ吸ってる?

辞めないかんねんれど。

無理無理、あんなに吸ってたやん、タバコ吸ってる時は自由を感じるとき、やろ。

そんなん言ってた?

いつも言ってた。

まあ、控えめに、せめて一日1箱にしいや。

すでに2,3日で1箱やけど。


へえー、それは最期に奇跡的なニュースを聞いたな。

なんで奇跡やねん。

まあ、ほんなら時間やし帰るわ。ごきげんよう。さようなら。やな。



ああ、ありがとうな。

こっちこそ、ありがとう!またね。

またね。

# by kouheimikami | 2012-03-27 00:31 | 日記

春の気配と桜の予感と

春がやってくる気配は、
庭の水仙が芽を出して、すっくりと日々伸びている様子や
ふわりと感じる風の中に漂う太陽に照らされた木々の匂い。

一年という単位は、四季がはっきりとある土地では、
ゆるやかに変化を伴って、あっという間の感覚と、
随分と長い時間だという思いとが交差して

そういえば、まもなく桜の季節になるんだなと
去年の今頃を思い出す。


吉本隆明さんがなくなった。
今まで吉本隆明さんの本は、じっくりと読んだことがなかったが、
糸井重里さんが編集している雑誌の特集の中の記事を読んだ。

ああ、日本には、こんな思想家がいたのだな。

生きるということ

仕事というもの。

家族の形について、

恋愛の捉え方。

人間が思考をするということについて。

つまり、これらの誰もがぼんやりと奥底に抱え込んでいながら、
先送りし続けているテーマの数々。
つまり、それらのテーマを考察したとして、それが何ら「目的」も
「経済生産性」ももたないテーマの数々。
つまり、自問自答の数々。
つまり、それらのテーマに人生を捧げた言葉のかけら。

しばらく吉本隆明さんの著作を読み込んでみたいと思う。


沈黙の中に、何かを巡らせながら、
言葉にして、書き起こしておき、
それが何かの役に立つのかどうかの確証もないまま、

たくさんの言葉を残して去った
しずかな生き様に敬意を表して。


明日は一日雨の模様。
一雨ごとに春は近づく。

今日、庭に植えた花々は、
雨を受けて根づいてくれるだろうか。

# by kouheimikami | 2012-03-23 01:45 | 日記

そんなテーマのようなもの

そんなテーマのようなもの_e0216362_23541813.jpg


こどもの頃に、とても不思議だったことがある。

なぜ同じ風景がないのか、ということだった。

幼稚園の遠足で宝塚ファミリーランドに行った、
その帰り道、僕は夕日がとても懐かしくて泣いたことがある。
先生が一生懸命に話しかけてくれた。

見たことがある、見たことがあるねん、この夕日
みたいなことを一生懸命に伝えようとしたけれど、
思いは伝わらなかった。


社会に出てから、不思議は増えてきた。
大人になったら、不思議に思うことは減っていくものなんだと思っていた。
「わかる」ことが増えるんだと思っていたからだ。

なぜ一年を通じて同じ仕事をしないといけないのか。
なぜ、一年を通じて「平均」の仕事なんてないのに、通年の仕事なのだろうか、
季節によって、あるいは時期によって、需要は変化する。
職種によっては、はっきりとシーズンがあるもの、例えばスキー場とかもあるけれど
ほとんどの仕事、商品にだって、シーズンがある。

価格を決めるときに、
その通年にわたって仕事をするということを含んで、
つまり暇なときの賃金や固定費を含んで、価格を決めたりする。

不思議だった。

不思議だと感じたことを、不思議だと言える勇気がなくて、
それは変な格好つけであったり、
いちいちそんなことを表現していては、
社会の中で、つまはじきにされるというような怖さもあった。

本当に必要な物と、その必要な物が一番最適な形で生み出されるシーズンだけに
経済が動くということならば、きっと今のような文明にはなっていないんだろう。

それが豊かさなのだろうか。とか。

こどもの頃の、
なぜ同じ風景が、地球上にはないのかという不思議。
なぜ、一年を通じて「平均」して働かないといけないのかという疑問。

僕の興味の周辺は、そんななぜから始まっている。

ふと、そんな疑問たちのコアにあるもの、
存在の疑問みたいなもの。

あと、どれぐらい人生があるのか、
それはきっと誰にもわからないけれども、

残りの人生を、
子供の頃からの疑問だったり、不思議だと感じたものを
ほったらかしにしないで、そのテーマについて取り組んでみたらどうだろうか
ということを思いつく。

琵琶湖開きも終わって、琵琶湖も湖上のシーズンを迎える。

あー、これを取り組んだら、死ねるなあ
というような、テーマ(それはライフワークと呼ぶようなもの)について
考えてみようかしらと思いがよぎる。

日没の時刻も少し遅くなってきて、
まだ寒いですよねと言っているうちに、桜季節がやってくる。

そんなことを考えた3月15日。

それでは閉店。
おやすみなさい。

# by kouheimikami | 2012-03-16 00:17 | 日記

雪の降る夜と春の気配と

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雪の降る夜と春の気配と_e0216362_122010.jpg


3月の雪は、1月2月の雪と、雰囲気が違う。
きっと、気温や温度なんかは、数字で表示すると同じなんだろうけれど。

確実に春に季節は歩き始めていて、庭の生き物たちが早速反応している。

去年の3月も、数回雪が降ったんだと思う。
雪が積もって、冬に戻ったと思ったら、翌日がいきなり春のにおいになっていたような気がする。

テレビをつけても、新聞やニュースを見ても、
震災の報道をやっている。
あれから1年の時間が経過した。
多くの人が「生きている」ということや「生きていく」ということを考えたんだと思う。
また行政や政府、組織や経済、つまるところの「現代の仕組み」について、
あるいは子供たちの未来や、そんなことがらに取り組んできたんだと思う。

震災の爪あとを、実際の土地を見ると、
人間の作ってきたものたちが、一瞬で「何もなかった」かのような風景に変わっている。

がんばろう日本!

掛け声が流れる。

その掛け声が悪い訳じゃないんだけれど、

がんばってきてるんよ。
震災の前も、ずっと。


青森出身の僕は、人生の大半をすでに関西で過ごしていて、
実感としての東北、生活としての東北は、遠い。

それでも、子供の頃に田舎にかえる度に、東北の、つまり産業の少ない、
はっきりと言葉にすれば、貧しいという現実を考えさせる言葉に出会ってきた。
それは親戚のひとりごとだったり、となりのお店のおばちゃんの雰囲気だったり、
そんなものたちから、感じられてきた。

父方の親戚のおじさんは、青森に産業を、雇用を生み出すんだと
ぶどうを育てて、ワインの工場を建てた。
そのワイン工場の、ラベルを貼る手伝いを僕もやった。
子供の僕から見ても、随分と大きな工場だった。

そして、すぐに工場は、立ち入り禁止になった。
しばらくして、多くの怖いおっちゃんたちが、僕の家にもやってきた。
子供だったから、理屈はわからなかったが、
お金がなくなったことは、わかった。

それから、親戚が集まることはなくなった。

母方の親戚は、教育、政治、自衛隊の一族だった。
それと前後して、原子力発電や原子力船の母校に青森が選ばれる。
そして、青森の全ての市町村に交付金が降りてくるようになる。
「迷惑施設のご負担見舞金」という説明とともに。

母方の親戚の寄り合いで、自衛隊に務めるおじさんが僕に言った。
東京には足を向けて寝れないなあ


東京(中央)と地方(辺境)は、つまりそんな関係だった。

そんな中、ずっと地方は頑張って来ている。
それでも土地を愛して、頑張ってきている。
もう、ずっとがんばってきてるんよ。


東北人は、我慢強い。
そんな中でも、みなさんありがとう!と感謝の言葉を忘れない。

厳しい冬、ずっとがんばって来ている。
すぐに報われなくても、いくら東京が便利になっても、ずっと。

翻って我が身の軽薄さを恥じる。

今年もきっと桜が、毎年同じように花を咲かせる。

じっと、冬を耐えて花を咲かせる。
くりかえし、繰り返し。

便利さ、効率のよさ、そんなものが、少し軽く、虚構に見えている自分の軽薄さ。
文明というものが、便利さの追求で、人の欲望が、進化のENERGYであるとしても、
そんな、欲望と便利さと、効率と、成功とか名誉とかそんなものたちが、
虚構に見える自分の軽薄さ。

誰かの、それは自分の「無意識」の問題だけれど、
辺境の誰かの、土地や生活が、踏み台になって成立している日本の都市。

きっとそれは世界でも同じ構図で、
どこかの誰かの、何かが踏み台になって成立している先進国。
そしてその先進国たちが、世界の国々に指導をしようとしている構図。

しかしながら、生きていくためには、誰かの何かが必ず踏み台になっていて、
事実、人は、ほかの生命を踏み台にしなければ生きていくことはできないのだから、
そこの構図には、何かの思い、
感謝やそんな祈りが介在して成立するべきものなのではないのか。

食べ物を食べるとき、「いただきます」と手をあわせるように、
例えば電気や、原発、例えばIT機器や石油。
そんな便利さを身にまとうときに、何かの祈りがいるんだろう。


そんな迷いやわがままや、答えが見えにくい人の世と僕の思いを知ってか知らずか、
今年も芽吹く、水仙の芽が、
背筋を伸ばしてすっくと立ち上がる。

そんな芽吹きに春の気配。

# by kouheimikami | 2012-03-13 02:02 | 日記